自炊

 一人暮らしを始めてから、食費にじわじわと悩まされている。結構なお金の量を払わないと、食べ物を手に入れることはできない。生きるのにもお金がいる。当たり前だが辛い話だ。

 そんな食べ物を、僕はコンビニで購入したり、スーパーで買ったりする。両者は手間に決定的な差がある。コンビニの手軽さは圧倒的で、毎日パンなり飲料なりを購入すれば大変楽である。スーパーはどうだろう、お惣菜とかを買う以外なら、その目的は料理の入手というより原料の調達だ。野菜や肉を買って自分で手を加えなければならない。究極に面倒だ。

 僕は文化的な生活を送るのが苦手だから、結構な頻度でコンビニ飯に頼ってしまう。今日も朝ご飯はファミマでパンを買ってすませた。そしておいしいと感じている自分が厭わしい。

 パンやおにぎりをかじるたびに何か無性に悲しくなる。なぜならこの商品に愛情は籠っていないからだ。工場の人がテキトーに作っているのだとかそういう失礼を言いたいのではないけれど、彼は少なくとも誰が食べるのかはわかっていないわけだ。顔も知らないような誰かに対する愛情、そんなものは成立しない。今僕が食べているパンも、僕が手に取る必要はなかった。僕のために用意されていた訳ではなかった。なんのために作られた商品だろうか?

 利益、それに尽きるのではないか。

 調理された食べ物が自分の目の前にあらわれるまでのプロセスも食事の一部だろう。今まで「僕のために」料理を作ってくれた両親、祖母の偉大さを身にしみて感じる。彼らの料理には血が通っていた。18になるまでそれに気づかなかった自分の愚かさを呪っている。

 だから僕は人間の温かみを創るために、これから少しずつでも、自炊に頼って生活していきたい。材料の入手も調理も面倒だが、こういう遠回りなプロセスを踏むことでしか確認できない大切なこともある。家族が一から作ってくれた料理の温かみや潤いを再現したいのだ。

 こういう考えに至るのも、今の孤立した生活に疲れ切っているからかもしれない。これからも耐え続けることができるかどうかは、明日の自分にしかわからない。