ここで、学んでいこう。

 名古屋に越してきて1、2ヶ月になるが、非常に心地のいい街だと思う。駅看板のフォントや名鉄の車両などの少し古びた刺激は、ほかの大都会で味わえる喧騒とはまた一味違って、安らかになれる。かつて僕がよく赴いた東京都心には、研ぎ澄まされた金属のような空気(それ故に人あたりは良くない)が存在していた。常に新しい場所を切り拓いていく意志、より良い効率を求める情熱が渦巻いていた。アグレッシブな人生を送るには最高の空間だろう。だがそれは自分には合わないような気がする。

 さて、僕は自宅にいるのが嫌いだ。部屋にこもっていると、心も体もじめじめと腐っていくような気がする。街に出れば新鮮な空気が僕を出迎えてくれる。僕には換気が必要だ。自分が持っていないものを少しずつ吸収し代謝し成長していく、そんな毎日を送りたい。

 ここで一つの疑問が生じる。

僕は活発な人生を送りたいのか、安穏に生涯を過ごしたいのか?

確かに僕には新たなことに挑戦する意志がある。冒険をする熱意がある。でもその根底にあるのは道を自由に選択する楽しさであって、決して何かに尻を叩かれ追い回されるような生活は望んでいない。要するに僕の考えは自分本位なのだ。社会に出たら役に立たない存在。むしろ害悪か。

 僕は自然科学に興味があって理学部に進学した。ここで過ごす数年間でどれだけのことを吸収できるだろうか。楽しみだ。でも社会に出たら、一部の人間からその吸収出来たことについてこんなことを言われるだろう。

「あなたの知識は一体なんの役に立つのですか?」

知らない。馬鹿げている。僕は僕の興味のままにやりたいことをやっていくだけだ。それが天に届こうが地に落ちようが構わない。知的好奇心を満たす、ただそれだけのことだ。もしかしたら、理学の研究者は社会貢献をあまり期待されていないのかもしれない。うなぎの産卵場所がわかって、クォークが6種類あるとわかって、何になる?

僕にはわからないけれど、一つ間違いなく言えるのは、理学研究は自由に根ざした活動であって人間に深い喜びを与えてくれるものだということ。僕はそのために生きる。生きていこうと思う。

 名古屋は居心地のいい街だ。のんびり気持ちを安らげながら、心にカビが生えない程度に、自分の足で歩いていく。こんな幸せはそうは見つからないだろう。