文学的思考力

 今日も沈んだ気分で大学に赴いた。これからやるべきこと、それに対応し損ねる自分を同時に思い浮かべて絶望するわけだ。朝日に捕まってしまった時いつも思う。今日もまた屑同然の自己と16時間ほど向き合わなければならない。本当に辛い。全部自分が悪いので、社会の方が変わるべきとか相手の方が変わるべきとか、そういったことは一切思っていない。

 理学書を読んでいる時が一番落ち着く。この大学の誰よりも生活面で劣っているであろう自分を、必死で数学的論理にひたすことで忘却できるからだ。

 これは理学に限った話ではないのだろうが、一度ある分野を学ぼうとして足を突っ込むと、予想外の深みに驚くものだ。学問はダテに2000年以上も膨らみ続けているわけではない。最近数学の勉強に勤しんでいるが、ここまで広範囲に道が拓かれていることは思わなかった。先人の作り上げてきた概念を吸収してそれを使いこなせるように修練する日々である。

 しかし、数学は無色透明な論理が延々と続いている。このクリアな質感が面白みの一つだが、数学書の論理に沿うには自分の濁りを捨てきらなければいけない。この作業は少々疲れをともなう。

 今日は休憩がてら詩を読んだ。ランボオの詩集だ。彼の詩を読んでここが良かったとか、この文の解釈はこうだとか、そういう考えを述べても詮無いことだと思うし、そういった観点で詩を鑑賞しなかったので、感想は特に書かない。

 世の中、詩や小説は何の役にも立たない、無価値だという人がいる(理学を志す人で何人かこういう人に出くわしたことがある)。嘆かざるを得ない。きっとそういう人は、ある意味数学や自然科学を習い損ねたのだろう。

 人間は残念ながら合理的な生き物とは言えない。絶えず何かしらの情念が、170センチほどの身の丈にぐちゃぐちゃと渦巻いているのだ。マーブルのように、禍々しく渦巻いているのだ。こんな複雑な形態に論理のピースははまらない。

 詩や小説によって、そういった人間の割り切れない部分が掘り起こされたりする。詩や歌に触れることは、人間の生ぬるい土台にアプローチしていくことなのだ。論理的思考力だけが人の人たる要素ではない。情念をある個体から言葉を通して獲得し、感じ取る能力も、人間の持つ優れた能力の一つだ。それを疎かにしていては、とても賢明とは言えないだろう。数学的思考力のほかに、文学的思考力も人間には必要なのだ。

 文学は、問題解決の立場からは、おそらく僕を救ってはくれない。でも僕に寄り添ってくれている。それで何となく心は軽くなる気がする。

 しかし、最近は精神が矯正されるスピードよりガタガタに狂っていくスピードの方が早い。今は何かしらのアプローチをする体力がないから、明日の自分に期待して今日は寝ることにする。