人類よ、大学に行こう

 昔から東京の街に憧れがあった。東京は文化の中心地であって、精神的恩恵を有り余るほど受けることができる。大阪も同じだ。人が集まるところには文化が形成されるし、その価値は人の数が多ければ多いほど、競争や商売と相まってより良いものが形成されていく。学生時代を過ごすならここに住みたいと思っていた。

 以上に述べたようなことが幻想であったことは、この1年くらいの間に数回、東京や大阪に足を運ぶ機会があってからだんだんとわかってきたことだ。大都会を見物してみて思ったが、まずこちらの興味を引くようなものはそう多くはないし、あったとしても、そこにあったのは商業主義に我を失い芸術の本分を忘れた書籍や音楽の群れだった。そもそも本当に文化的活動を営もうとしている人は、当然多いのだろうが、たいていの場合は町中に降りてこない。彼らの勝負する舞台は恐らく俗世から程遠いところにあるからだ。一方、人の数が多ければ、文化なぞに興味はないという人も増えていくだろうと思われる。僕の目に映ったのは雑多な人の群れと彼らの刹那的好奇心や快楽を満たすトリビアルな事物の集合だった。

 今僕は、学生という一種特殊な人間としてこの世に身を置いているが、その特権を脱ぎ捨てるべき時がいつかは来てしまう。そうなったとき、僕の自由な感性はどこを向いたらいいのだろうか。どこに向いてしまうのだろうか。実のところ、漠然とした不安を抱えて生活しているのである。将来に対する悲観と過去に対する執着、その狭間で不安定な今を生きる感覚を人々はモラトリアムと呼ぶが、そう呼ぶにはあまりに僕は過去に執着していないし、満ち足りた今を生きている。ではこの状況で抱えた将来への不安をどう説明したらよいのか、僕は考えている。ともかく、僕はまだ本当の意味で社会というものを見つめたことがない。おかげでその鋭利で冷たい側面ばかり把握しているのは確かだ。社会生活を営むのと、歴史と人間の知性が育んだ文化を楽しむのは、そう近い行為ではない。社会生活は文化を作りうるが、その中で価値があるのはほんの一握りだと思う。

 最近、自分はどこの大学に行っても同じ事をしていたのではないか、そんなことを考えている。音楽を人との交流のもとで楽しんだり、大学内の人と積極的に思考を刺激しあったり、図書館にこもって理学書を読むなどが僕の生活の中心である。そういうことが可能なのは大学こそ文化の集積地だからだ。都市が文化の集積地になるとは限らない。それに相応しくない人間も集まりうるからだ。東京だろうが大阪だろうが名古屋だろうが、先人の作り上げた美しい世界を見渡すのにどこから見渡すかは全く関係ない。これこそ大学生の特権なのだ。生活の充実のために町へ積極的に繰り出す人たちを見て思うが、それは社会人になってもできる。時間をかけてゆっくり、膨大な歴史と世界の構造を眺めてみるのも、一つの価値ある過ごし方なのではないだろうか?

久々

 このページを開くのはいつ振りか、最後の更新が6月中旬であるから9ヶ月くらい放置していたことになる、この間に僕の考えもだいぶあちこち巡ったし僕を取り巻く環境も変化してしまった。時間の流れというのは、早いといえば早いが、それは過去を振り返るときに今この瞬間に断片を引きずり出してくるから、その間にあったことがショートカットされて思いのほか短く感じてしまうだけだと思う。事柄が少し遠くに走っていくだけで実のところ我々は濃密な時間の中に身を置いている。その証拠に9か月前に書いていた文章を見返すととても自分が書いたものとは思えない、大したことを書いているようにも見えるし書いていないようにも見える。当時の自分が何を考えていたかは伝わってくる。人間物事の初めのモチベーションは頗る強い、そのモチベーションは残念ながら長く続かないことが多い。当時山の上に無料で使えるジムがあると知りほぼ毎日のように通っていたのを思い出した、1か月くらい通ったがなにせ遠いし疲れるしで徐々に足が遠のいてしまった。いまではヒョロヒョロした体を引きずる幽霊のごとく生きている。食事も一日一食、まるで修行僧、日々机に向かって適当な数学や物理、プログラミングやDTMの修行をしている。しかし修行と呼ぶには精神的負担はそれほど多いわけではない(高みを見て気分がしおれることがあるが肉体的苦痛よりはまし)からただガタガタ滅茶苦茶な生活をしているだけの人間だ、だめだめだ。なんだかインドアが過ぎてじめじめしているのは致し方ない、いずれアウトドア要素を生活に取り込みたいがこれ以上手を広げると何も身につかない、いや学生のうちに身につくことなどたかが知れているかもしれない、始めてみるのもいいかもしれない。一人でできるスポーツと言ったら何があるだろうか、筋トレか?ボルダリングか?どちらにせよインドアという感じがする。

 実は今やるべきことがある、絶賛逃避行動中だ。それもあと10時間ぐらいが期限のタスクだ、手が全くついていない。こんな砂みたいな文章を練っている暇は本当はない。しかし目の前のタスクのことを考えると、その大きさゆえに、敬遠の気持ちが起きてしまう。日頃平地でぐうたらしている人間が突然高山に登れるわけがない。しかし、登らなければならない。世の中つまらないけれどもしなくてはならないことは山ほどある。一つ一つこなしていかなくては。それはわかっている。わかっているから明日まで待ってくれ、そういって今日に至る、まるで時間はとまることないベルトコンベア、無機質な静かさでずんずん進んでいく。そうしているうちに3時になってしまった。

 もうすぐ2年生になる。入学当初からかなり遠くに来た気もするし、あまり成長していないような気もする。もう過ぎてしまったことの喪失感と、これからしなくてはいけないタスクに対する憂鬱に引き裂かれながら生きてきた、多分これからもそうである。とりあえず今は文章を書き散らすのをそろそろやめようかと思う。最近参加するサークルの数も多くなり僕のことを現実に知っている人も増えてきたのでこういう拙い何かを発信するということに抵抗を感じてきた。また更新があるかもしれないし、ないかもしれない。もしまた会う機会があればその時はどうかよろしくお願いします。

文学的思考力

 今日も沈んだ気分で大学に赴いた。これからやるべきこと、それに対応し損ねる自分を同時に思い浮かべて絶望するわけだ。朝日に捕まってしまった時いつも思う。今日もまた屑同然の自己と16時間ほど向き合わなければならない。本当に辛い。全部自分が悪いので、社会の方が変わるべきとか相手の方が変わるべきとか、そういったことは一切思っていない。

 理学書を読んでいる時が一番落ち着く。この大学の誰よりも生活面で劣っているであろう自分を、必死で数学的論理にひたすことで忘却できるからだ。

 これは理学に限った話ではないのだろうが、一度ある分野を学ぼうとして足を突っ込むと、予想外の深みに驚くものだ。学問はダテに2000年以上も膨らみ続けているわけではない。最近数学の勉強に勤しんでいるが、ここまで広範囲に道が拓かれていることは思わなかった。先人の作り上げてきた概念を吸収してそれを使いこなせるように修練する日々である。

 しかし、数学は無色透明な論理が延々と続いている。このクリアな質感が面白みの一つだが、数学書の論理に沿うには自分の濁りを捨てきらなければいけない。この作業は少々疲れをともなう。

 今日は休憩がてら詩を読んだ。ランボオの詩集だ。彼の詩を読んでここが良かったとか、この文の解釈はこうだとか、そういう考えを述べても詮無いことだと思うし、そういった観点で詩を鑑賞しなかったので、感想は特に書かない。

 世の中、詩や小説は何の役にも立たない、無価値だという人がいる(理学を志す人で何人かこういう人に出くわしたことがある)。嘆かざるを得ない。きっとそういう人は、ある意味数学や自然科学を習い損ねたのだろう。

 人間は残念ながら合理的な生き物とは言えない。絶えず何かしらの情念が、170センチほどの身の丈にぐちゃぐちゃと渦巻いているのだ。マーブルのように、禍々しく渦巻いているのだ。こんな複雑な形態に論理のピースははまらない。

 詩や小説によって、そういった人間の割り切れない部分が掘り起こされたりする。詩や歌に触れることは、人間の生ぬるい土台にアプローチしていくことなのだ。論理的思考力だけが人の人たる要素ではない。情念をある個体から言葉を通して獲得し、感じ取る能力も、人間の持つ優れた能力の一つだ。それを疎かにしていては、とても賢明とは言えないだろう。数学的思考力のほかに、文学的思考力も人間には必要なのだ。

 文学は、問題解決の立場からは、おそらく僕を救ってはくれない。でも僕に寄り添ってくれている。それで何となく心は軽くなる気がする。

 しかし、最近は精神が矯正されるスピードよりガタガタに狂っていくスピードの方が早い。今は何かしらのアプローチをする体力がないから、明日の自分に期待して今日は寝ることにする。

音楽制作について

今日ものほほんと学校まで歩いていき、講義を受け、帰ってきてツイッターをする。戦争があってまもない時期であればこうした生活は贅沢極まりないのだろうが、今は今だ。単調な生活が続いている。与えられたものだけを享受する、だらだら刺激のない生活に満足するほど僕の心は清貧に出来上がっていないので、音楽制作系統のサークルに入った。けれどまだちゃんとした活動を始めていない。

もとより創作活動への意志は強い方だった、と思う。でも僕の拙劣な文章を見ればわかるように、文芸に向いた脳髄は不幸にも持ち合わせていなかった。言葉はそれぞれに個性があってそれを正確に把握する作業、たくみに並べ立てる作業が必要で、しかもかなりの労力を要する。その点音楽は便利だ。ノーツに個性があるわけではないし、並べてメロディを作れば済む。曲に題名をつけることにどれだけの意味があるだろうか?音符が持つのは音声情報だけで、性格などないのに。

そう考えていた。

君はモーリス・ラヴェルの水の戯れを聞いたことがあるだろうか。クロード・ドビュッシーの雨の庭を聞いたことがあるだろうか。先日演奏を聴く機会があったが、音楽のもつ力を正面から食らって僕は呼吸の仕方を忘れるところだった。ただの音に性格は存在しない、それは事実として認めるにせよ、それが連なった時に、実に詳細に見事な風景を描き出すのだ。ちょうど細胞が集積して生き物という壮大な物語を生み出すように。

僕には一体どんな作品が創造できるのだろう。僕の稚拙な経験と技量では青臭い作品しかできないかもしれない。でもこんな言葉を聞いたことがある。「芸術創作とは自分の性格を発見する作業だ」と。自分の性格とはなんだろうか、と考えてみる。しかし自分と向き合うという行為は想像以上に難しいことだとわかった。自分の分析は自分が行うので客観視は不可能に近い。しかも言葉を伝わないと考察もできない。音楽に対して自己を投影することは可能だろうか?まず答えを発見できるだろうか?発見してもそれが手に余る複雑さになりはしないか?不安がつきない。 一番滑稽なのは、僕はまだ何も始めていないということである。初心を大事にしながら音楽と付き合っていこうと思う。

交流

 疲労には大きく分けて2種類ある気がする。一つは、何か充実した時間を過ごした後の心地よい疲れだ。これは良い睡眠にもつながり、むしろ疲れといえど気持ちにはプラスに働くので問題はない。

 もう一つは、精神的にズブズブと沈み込むような疲労。実は今、後者に大変に悩まされている。日に日に心が、乾いた沼に溺れて行くような感覚である。厄介なことに慢性的なもののようだ。

 そんな疲労を少しでも矯正しようと自分の生活を省みてみる。

自分はあまり人と話すのが得意なタイプではないから、単独行動が基本だ。講義が終われば図書館に赴き、適当に理学書やある作家の作品集などを開いて眺めている。家に帰ってももそもそ一人で飯を食らっている。つまり、他人との交流が著しく少ないのだ。ただ寂しさと暗さで淀んだ世界に僕はいる。

 人との交わりは換気のようなものである。たわいのない会話においても、相手は少なくとも自分とは違う考えなり論理なりがあるもので、それを垣間見ることはできる。人との交流が少ないと、思考に風が送られない。自分本位の世界が雑然と、じめじめ繁殖して、腐ってしまう。おそらく今の生活を続けていれば、間違いなく僕の精神は荒廃して行くだろう。

 いわゆるコミュ障は、自分の精神の腐敗する確率が一般の人より高いとみていい。僕も含めそういった人たちには積極性が必要だ。コミュニケーション能力が高いか低いかというより、相手のことを少しでも考えたり、知ったりしようとする姿勢が重要なのかもしれない。僕らは人間である。言葉を使って交流できる生き物である。交流が出来なければこの先の人生、見通しが厳しくなる。僕はこのドロドロした閉鎖的な流れを止めたい。

 しかし、こういったことをツイッターやブログで書き込んでいる時点で、あまり今述べたことは実現できていないだろう。典型的な逃避行動。自分が本当に嫌になる。

 このままだと4年間で精神が沼の底の方まで沈みそうだ。もがいてどこまで重力に抵抗できるだろう。不安と戦う毎日である。

自炊

 一人暮らしを始めてから、食費にじわじわと悩まされている。結構なお金の量を払わないと、食べ物を手に入れることはできない。生きるのにもお金がいる。当たり前だが辛い話だ。

 そんな食べ物を、僕はコンビニで購入したり、スーパーで買ったりする。両者は手間に決定的な差がある。コンビニの手軽さは圧倒的で、毎日パンなり飲料なりを購入すれば大変楽である。スーパーはどうだろう、お惣菜とかを買う以外なら、その目的は料理の入手というより原料の調達だ。野菜や肉を買って自分で手を加えなければならない。究極に面倒だ。

 僕は文化的な生活を送るのが苦手だから、結構な頻度でコンビニ飯に頼ってしまう。今日も朝ご飯はファミマでパンを買ってすませた。そしておいしいと感じている自分が厭わしい。

 パンやおにぎりをかじるたびに何か無性に悲しくなる。なぜならこの商品に愛情は籠っていないからだ。工場の人がテキトーに作っているのだとかそういう失礼を言いたいのではないけれど、彼は少なくとも誰が食べるのかはわかっていないわけだ。顔も知らないような誰かに対する愛情、そんなものは成立しない。今僕が食べているパンも、僕が手に取る必要はなかった。僕のために用意されていた訳ではなかった。なんのために作られた商品だろうか?

 利益、それに尽きるのではないか。

 調理された食べ物が自分の目の前にあらわれるまでのプロセスも食事の一部だろう。今まで「僕のために」料理を作ってくれた両親、祖母の偉大さを身にしみて感じる。彼らの料理には血が通っていた。18になるまでそれに気づかなかった自分の愚かさを呪っている。

 だから僕は人間の温かみを創るために、これから少しずつでも、自炊に頼って生活していきたい。材料の入手も調理も面倒だが、こういう遠回りなプロセスを踏むことでしか確認できない大切なこともある。家族が一から作ってくれた料理の温かみや潤いを再現したいのだ。

 こういう考えに至るのも、今の孤立した生活に疲れ切っているからかもしれない。これからも耐え続けることができるかどうかは、明日の自分にしかわからない。


ここで、学んでいこう。

 名古屋に越してきて1、2ヶ月になるが、非常に心地のいい街だと思う。駅看板のフォントや名鉄の車両などの少し古びた刺激は、ほかの大都会で味わえる喧騒とはまた一味違って、安らかになれる。かつて僕がよく赴いた東京都心には、研ぎ澄まされた金属のような空気(それ故に人あたりは良くない)が存在していた。常に新しい場所を切り拓いていく意志、より良い効率を求める情熱が渦巻いていた。アグレッシブな人生を送るには最高の空間だろう。だがそれは自分には合わないような気がする。

 さて、僕は自宅にいるのが嫌いだ。部屋にこもっていると、心も体もじめじめと腐っていくような気がする。街に出れば新鮮な空気が僕を出迎えてくれる。僕には換気が必要だ。自分が持っていないものを少しずつ吸収し代謝し成長していく、そんな毎日を送りたい。

 ここで一つの疑問が生じる。

僕は活発な人生を送りたいのか、安穏に生涯を過ごしたいのか?

確かに僕には新たなことに挑戦する意志がある。冒険をする熱意がある。でもその根底にあるのは道を自由に選択する楽しさであって、決して何かに尻を叩かれ追い回されるような生活は望んでいない。要するに僕の考えは自分本位なのだ。社会に出たら役に立たない存在。むしろ害悪か。

 僕は自然科学に興味があって理学部に進学した。ここで過ごす数年間でどれだけのことを吸収できるだろうか。楽しみだ。でも社会に出たら、一部の人間からその吸収出来たことについてこんなことを言われるだろう。

「あなたの知識は一体なんの役に立つのですか?」

知らない。馬鹿げている。僕は僕の興味のままにやりたいことをやっていくだけだ。それが天に届こうが地に落ちようが構わない。知的好奇心を満たす、ただそれだけのことだ。もしかしたら、理学の研究者は社会貢献をあまり期待されていないのかもしれない。うなぎの産卵場所がわかって、クォークが6種類あるとわかって、何になる?

僕にはわからないけれど、一つ間違いなく言えるのは、理学研究は自由に根ざした活動であって人間に深い喜びを与えてくれるものだということ。僕はそのために生きる。生きていこうと思う。

 名古屋は居心地のいい街だ。のんびり気持ちを安らげながら、心にカビが生えない程度に、自分の足で歩いていく。こんな幸せはそうは見つからないだろう。