交流

 疲労には大きく分けて2種類ある気がする。一つは、何か充実した時間を過ごした後の心地よい疲れだ。これは良い睡眠にもつながり、むしろ疲れといえど気持ちにはプラスに働くので問題はない。

 もう一つは、精神的にズブズブと沈み込むような疲労。実は今、後者に大変に悩まされている。日に日に心が、乾いた沼に溺れて行くような感覚である。厄介なことに慢性的なもののようだ。

 そんな疲労を少しでも矯正しようと自分の生活を省みてみる。

自分はあまり人と話すのが得意なタイプではないから、単独行動が基本だ。講義が終われば図書館に赴き、適当に理学書やある作家の作品集などを開いて眺めている。家に帰ってももそもそ一人で飯を食らっている。つまり、他人との交流が著しく少ないのだ。ただ寂しさと暗さで淀んだ世界に僕はいる。

 人との交わりは換気のようなものである。たわいのない会話においても、相手は少なくとも自分とは違う考えなり論理なりがあるもので、それを垣間見ることはできる。人との交流が少ないと、思考に風が送られない。自分本位の世界が雑然と、じめじめ繁殖して、腐ってしまう。おそらく今の生活を続けていれば、間違いなく僕の精神は荒廃して行くだろう。

 いわゆるコミュ障は、自分の精神の腐敗する確率が一般の人より高いとみていい。僕も含めそういった人たちには積極性が必要だ。コミュニケーション能力が高いか低いかというより、相手のことを少しでも考えたり、知ったりしようとする姿勢が重要なのかもしれない。僕らは人間である。言葉を使って交流できる生き物である。交流が出来なければこの先の人生、見通しが厳しくなる。僕はこのドロドロした閉鎖的な流れを止めたい。

 しかし、こういったことをツイッターやブログで書き込んでいる時点で、あまり今述べたことは実現できていないだろう。典型的な逃避行動。自分が本当に嫌になる。

 このままだと4年間で精神が沼の底の方まで沈みそうだ。もがいてどこまで重力に抵抗できるだろう。不安と戦う毎日である。